組合長さんの話
1.沖島で漁業に従事している人
  沖島漁協組合員数(1998年5月末)   135名  
  90名 漁業をしている
  全戸数の約7割が漁業関係

2.漁獲高の推移
  別紙資料
  ・全体的に減少している。   
    理由  自然的なもの 
         琵琶湖の水の汚れ
          水温の上下による生育の遅れ
         外来魚による被害
         害鳥(カワウの大繁殖)被害
  ・モロコがとれなくなってきてワカサギがとれるようになった。
    理由・・・平成6年の異常渇水や阪神大震災のため
         琵琶湖の生態系がすっかり変わってしまった。

3.漁獲高を高めるための苦労
  ・自然に左右されるため計算できない。
  ・漁具類が大型化する。
  ・他の人よりいかに早く物とりをするか。
   漁船の油代 多い人では1ヶ月10万円以上 平均3万〜8万 48円

4.漁師たちの願い
   琵琶湖の水質をいかに美しくするか。
   漁獲高減少で自然的によるもの外来魚、カワウの繁殖をどのように   するのか。 
   私たち漁師には手に負えないことばかり 
   県民全員による琵琶湖の美化を進めるべきであり水が飲めなくなる   ように思う
   北湖も今の小糸の汚れ具合から南湖も変わらないくらい網が汚れ    る。 想像以上に汚れる
   子どもたちにも水を大切に考えるように今から頭に入れておくべき    だ。

5.漁法について
  刺し網  小糸という細かい糸でする。 初めに網をしかけておく
  琵琶湖大橋→竹生島まで  夜10時〜朝6.7時

  定置網(えり) 6〜8人でする 朝4時〜6時30分まで

  沖すくい  6時くらいから 魚の動きに合わせて何回も行く

  中びき   2月くらい   一番水揚げ量が多い
         (活アユ) 酸素と塩水の中に生きたまま入れて業者に渡         す。中びきだけしている漁師もいる    


漁師さんの仕事
1.漁師さんの一日の生活
  季節や漁の種類によって違う。
  いずれにしても漁師の朝は早く、漁から帰ってからは次の日のために
  道具を調べてみたり、漁船の点検をしたりしている。
  時間が余っている時は、次の季節に使う網やいろいろな道具の準備  とか修理をする。
  そして、みんなと話をしていろいろと情報を聞くのも仕事である。

  中びき(底びき) 11月〜4月頃・・・モロコ エビなど 朝5:30〜昼 
  さし網(小糸)  2.3月・・ニゴロブナ 夜10:00〜次の日6:00

  沖すくい     6.7月・・アユ  時間は決まっていない

  たつべ      5〜9月・・エビ   えり


2.魚をとるための工夫
  みんなから道具のことを聞く。
  毎年の魚のたくさんいた場所とか月日をメモしておく。
  風の向きによって次の日どこに魚がいるか記録しておく。
  その年の気候とか魚の大きさによって場所とか道具をかえる。

3.漁師さんの苦労と願い
 ・暑い日も寒い日も海がおだやかな日は魚がとれなくても場所を変えな  がら時間までがんばらなければいけない。少しでも魚が多くとれるよ   うに。   
 ・今は、夫婦で漁に行かなければならないが、いつか男性ばかりでもっ  と安全に能率よく仕事ができるようになってほしい。

 ・冬は雪の日でも波が荒れていなければ漁に出かける。
  どんな日でも漁に出るかどうかみんなで確かめるため5:00には起きる。
  冬の風の寒さは手がしびれるし、口では言えないような寒さである。
  でも厚着をすると、汗をかいて後で寒くなるのであまり厚着はできない。
 ・夏の暑さも厳しいが、カッパを脱ぐことができず、汗でいっぱいになる。
  アユは多いときで30kgぐらいになるので引くのは機械があるから楽   になったが、網をあげるのは人間の力でしなければいけないので大   変である。
  しかし、会社と違って漁は人から言われて仕事をするのではなく、自   分で工夫をしてがんばればたくさん魚がとれるので、とても喜びも多   い。また、自然が相手なので大きな気持ちになれる。
  そして何よりも沖島が一番よいところだと思っているので生まれ育っ   たところで働けるのがうれしい。
  子どもたちも沖島の良さをいっぱい見つけて誰にでも自慢のできる島  にしてほしい。
          沖島でとれる魚
魚貝名 コメント・説明
アユ 8月10日から12月まではとってはいけないきまりで、他は、エリ漁で冬場は多くとれ
夏場は刺し網やスクイでとれます。
コイ 漁で生計を立てている人は沖島ではありません。
他の漁でとらえたり、秋に魚釣りをするくらいで、家で食べます。
フナ 刺し網で11月くらいから5月くらいまでとれます。
マス 刺し網で春から秋くらいにとれます。
ゴリ 7月から10月くらいまでとれます。
モロコ
ワカサギ・
スゴ・ハス
一年中とれます。冬は中びきや刺し網で、夏は刺し網です。
夏の刺し網はほとんどモロコ漁になります。
ワカサギは昨年くらいから水揚げにのるようになってきました。
2,3年前まではあまり見られなかった魚です。
エビ 冬場は中びきでとり、夏場はタツベで手長えびを主にとります。
シジミ 一年中とれます。(5,6,7月は禁漁となっています。)
ほとんどの魚が一年中とれますが、アユだけは、期間が決まっていて、2月は稚アユを活アユとして業者に出荷し、業者が大きく育てて、市場に出まわりますので稚アユは一般の家庭では、食べられません。
稚アユ漁は中びきで特別の許可が必要です。
エリ漁は全部活アユとして出荷されます。夏場の刺し網やスクイのアユは、そこそこの大きさになっていて主につくだ煮などに加工されます。塩焼きにして食べるようなアユは琵琶湖ではとれません。養殖や川でとれたものです。
                                                      資料提供 沖島漁業協同組合

沖島の漁法

○地びき網

 昔は地びき網を中心に沖島の漁業や生活が成り立っていたようであるが、最近ではほとんど姿を消してしまった漁法である。安土桃山時代から江戸時代にかけて沖島の内外でひかれていた。島内では、瀬戸浜、栗谷、大和田、あまずらなどで、島外では堀切、小田、宮ヶ浜、火たき場、鮒ヶ谷、小豆浜、松ヶ崎、東は愛知川河口、西は仁保川河口付近にかけて網ひき場が開拓されていた。

○刺し網類

 古老の話によると、もとは一枚網のもので、主にヒガイ・ハスをとる漁具であった。沖島ではハスはとれず、大部分がヒガイであったという。フナ用の小糸(フナゴイト)を沖島で最初に使用したのは大正初期の頃だったという。ゲンゴロウブナもウオ(ニゴロブナ)もとれたが、フナゴイトよりもやや目の細いウオ取り専用の小糸(ウオゴイト)も用いられるようになった。
 小糸網はその後小糸網、長小糸網、細目小糸網などに分化しており、フナ三枚網・定数外三枚網なども小糸網系統のものとされている。小糸網はコイ、フナ、モロコ、ヒガイ、アユを、長小糸網はコイ、フナ、マスを、細目小糸網はアユ、ヒガイを、長三枚網・定数外三枚網はフナ、コイを漁獲の対象としている。
 昔の小糸網は沖島の周辺だけで行い、水深も7〜8mくらいのところだった。現在は琵琶湖一円が漁場となり、水深も40〜50mくらいでも大丈夫である。船を止めるのにも錨の上げ下ろしをするにも動力化が進んで昔のように体力を消耗することもないし、時間もかからない。

○チュウビキ網

 イサザやモロコをとる手繰網は沖島ではチュウビキと呼ばれている。小型機船底びき網(第一種)、モロコ船びき網・イサザ船びき網・ゴリ(ウロリ)船底びき網などのことである。出漁範囲は昔は沖の白石付近までであったが、現在では北湖一円に及んでいる。
 モロコ用は絹製、イサザ・ウロリ用は綿製の網で全く別物であったが、戦後アミランができてから同じ網でモロコ・イサザ・ウロリなどの各種の魚類やエビがとれるようになり、ネコあみとよばれた。しかし、以後の網の改良で網目はモロコ用がやや粗く、イサザ・ウロリ・エビ用の順に細目のものができている。これらの網はウオドリの部分とその両翼から成っており、袋状の網に長いヒキツナがついている。漁期は、モロコが10月から翌年4月中旬まで、イサザ・エビは11月から4月まで、ウロリは2月はじめから4月終わりまでである。
 戦前にはチュウビキをする漁家は多くなかったが、今はほとんどの漁家が従事している。1980年にはコアユの船曳漁が沖島の漁民によって開発された。琵琶湖のコアユは放流用のアユ苗として出荷されるものが多く、獲物の死亡率の高い船曳網はコアユの捕獲不向きとされていた。その常識を破って新しい工夫が行われたのである。この新しい網では平均重量0.8g程度のコアユがとらえられ、放流用アユとして4g程度に成長するまで人工飼育されるのである。従来のオイサデ、沖スクイ、ヤナなどは4g程度のコアユをとらえる漁具で、その画期的な漁法として注目されている。

○エビタツベ

 エビタツベ漁に従事する漁民も、近年エビが高値で売れたため、かなりの数であったが、沖島で使い始めたのはそれほど前のことではない。1930年(昭和5)頃木浜(守山市)でエビタツベが使用されているのを知り、見学に行った島民が150個ほどを作ってもらい、沖島で実験的に使った。うまくいったので、その後は見よう見まねでエビタツベを自分で作った。これはテナガエビやコエビを捕るためのものであった。
 材料の破竹は対岸の愛知川河岸に生えているものを使用した。この竹はまっすぐに割れて加工しやすい。しかし、戦後になってこの竹に花が咲いて枯れ、材料難となったので、九州から仕入れるようになった。エビタツベ作りは、1日かかっても3個くらいしかできなかった。底にはナマコ(トタン板)を使い、耐久力を増すため全体にコールタールを塗る。近年はプラスチック製品の出現で、自家製の竹のエビタツベは姿を消している。
 このエビタツベにはイワシ・ニシン・カレイなど塩物の海の魚の古くなったものやシジミをくだいたものをエサとして入れる。コメヌカの団子も入れるが、テナガエビはこれではとれない。エサを入れたタツベは、沖島・長命寺・伊崎近くの深さ2ヒロくらいまでのゴロタの所(石の多い所)に約2m間隔で100個ほどをシュロナワ(今はマニラロープ)に取り付け湖底に沈める。早朝の仕事で、毎朝見回り、エビを捕り、エサを補充していく。10〜20日間たつと引き上げ場所を移動する。

○オイサデ

 オイサデの歴史も沖島では新しい。1965年(昭和40)頃尾上(東浅井郡湖北町)からオイサデ網を持って漁に来たことがあり、それを見習って沖島でも始められた。

○沖スクイ網

 沖島ではコアユの沖スクイ網も行われているが、20年前くらいからである。沖島はコアユとは昔は縁がなく、注目され始めたのは琵琶湖のコアユがアユ苗として盛んに県外に送られるようになってからである。
 沖で群れになっているアユの固まりを船からタマですくい取る漁法で、沖島での始まりは新しい。昭和47年頃3〜4ハイの船が湖北の漁法をまねてやりだしたが、翌年には20パイ程度に増えた。それ以後機械式の改良ダマになったこともあり漁獲性能も向上したため沖スクイをする船が増えてきた。現在では50パイ以上が操業している。
 漁具の構造
 漁具はタマ(タモ網)だけであるが、最初は手ダマが使われ2年ほどしてから船のヘサキに据え付ける現在の改良ダマに変わった。初期の手ダマは、径7〜8mmのピアノ線を径80cmほどの輪にして目合32節のテグスの網地を深さ60〜70cmほどになるように取り付け、長さ4ヒロの竹の柄を差し込んだものである。改良ダマは鉄製の長方形の枠(縦80cm、横140cm)に同じ目合のアミランの網をつけ、船のヘサキにレールに沿って突き出せるように据え付けたものである。
 漁法
 この漁法で最も肝心なのは、アユの群を的確に発見して素早く近づくことである。湖面を見ているとアユの群は長さ1尺ぐらいの材木が浮かんで流れているような感じで、湖面にひときわ黒く見えるという。この黒い固まりを発見したらその時にすぐ駆けつけなければならない。というのはこの黒くなっている時が本当に固まっている時で、この段階を過ぎるとこの固まりは徐々に拡がって薄くなってしまうからである。拡がってからタマを入れてもほとんど入らない。また群れに鳥のついていることがあるが、この段階の群れは鳥のため既に散りかけているので近寄っても駄目である。鳥のつく前に群れに近づかなければならない。
 船のヘサキに1人が乗り、トモに1人が乗り舵を取る。2人で湖面を見つめて群れを探す。発見するとトモノリは舵を群れに向け全速力で近づく。手ダマを使っていた時は、ヘサキの者がタマを持ち群れが船の横に来た時タマを群れの一番濃い所を目がけ、斜めに入れる。縦に真横から入れると、船にスピードがあるので水面にタマが入った瞬間、水が網にいっぺんに張って逆流するので中のアユも押し出されて出てしまうので駄目だという。タマを入れたらすぐに上げて中のアユを取り出す。
 改良ダマの場合は、群れを見つけると群れが船のヘサキに来るように近づき、すぐ近くまで寄るとヘサキの者が把手を持ち上げレールの上を滑らせてタマを突き出す。群れをついた瞬間に把手を下に押さえる。すると船のスピードがあるのでその反動でタマがレールの上を戻ってくる。タマの中から小さなタマ網でアユをすくい取る。ヘサキの者は突いた瞬間に強い衝撃を受けるので若くて体力のある者でないと体が持たないという。下手に突くとタマの戻りで怪我をすることもある。女性ではとても無理なので船に乗るのは2人とも男性である。
 沖スクイは朝6時頃出漁すると1日中やっている。アユが一番群をなして浮くのは朝と夕方でこの時間帯がよくとれる。とれたアユは鉄製の四角い貯蔵庫に水を張って入れ中に氷を細かく割って混ぜておく。このアユはほとんどが小松のアメダキ屋へその日のうちに直接持っていく。売値はキロあたり500円〜700円である。1日漁をして良い日は300〜400キロとれることもあるという。
 漁場と漁期
 漁期は実際には6月初めから8月いっぱいは可能だが、乱獲を防ぐため制限されている。以前は8月になってもとっていたが、昭和52年頃から漁期は6月15日から7月いっぱいまでの範囲で県がその年により決めることになった。

○シジミ漁

 沖島の漁獲高のうちで、シジミの漁獲高の占める比重は現在極めて小さなものになっている。しかし、戦前の沖島ではシジミが漁獲高の4分の1を占め、シジミ漁は沖島の漁民生活と深い関わりを持っていた。事情は戦後のしばらくも変わりがなかった。1951年(昭和26)の漁具別水揚げ高と操業戸数に示されているようにシジミ漁を中心とする貝船曳網業が水揚げ総額の26%を占め、漁家の約80%の95戸が従事していた。当時はシジミ取りだけで生活している漁民も何人かいたのである。カネタマとよばれるタモ網を湖底に下ろし、船でひいてシジミなどをとる漁法で、沖島では以前は手軽にだれでもできる一般的な漁法であった。島のすぐ近くに好漁場がありほとんどの人がシジミカキをしていて冬から春にかけて(1月〜5月)はシジミの漁獲だけで渡世できた。シジミの漁獲がよかったのは昭和30年代までで、その後急激に漁獲量が減少したためシジミカキをする人も少なくなった。現在は専門にやっているのは1人だけで沖島のシジミカキ漁業は短い期間で繁栄から衰退へと大きく変化してしまった。
 シジミ漁はカラス貝漁やイケチョウ貝漁と共に貝船曳・小型そこびき網(第一種)などと総称される形で行われるが、貝船曳網は一般の魚類用とかなり違っていて、鉄製の長方形の口枠に綿糸で作った袋状の網を取り付けたもので、タマとよんでいる。これにはカラス貝やイケチョウ貝用のものもあったが、シジミ用のは鉄の枠が細くて軽いので枠の下部の部分に対岸の木戸(志賀町)産のゴマ石(花崗岩)の切石をつけて重さを増す工夫がしている。鉄の枠の湖底に接するところは、鉄の板をつけて、湖底をかいてシジミをとらえる構造になっているが、後には鉄板の変わりに爪をつけるようになり一層能率的に湖底をかき、砂の中のシジミをとらえることができるようになった。これをマンガ(万鍬)とよんでいる。戦後イケチョウ貝が淡水真珠の母貝として利用されるようになると、シジミ・イケチョウ貝のいずれもがとれる形のものが作られた。とらえられた貝類は袋状の網の中に転がり込んでいくわけだが、この網の材料も綿糸から耐久力の強い人造繊維に変わった。
シジミ漁は1人で行くこともあるが、2人で出かけるのが普通である。漁船1隻で網2張りを使用する。漁場に着くと錨を下ろす。そうして漁船をシジミのとれそうだと思う方向へ進めていく。錨網ののびきったところに浮きをつける。この浮きに手縄の端を結びつける。そこからさらに手縄を下ろしながら漁船を70〜80mほど前へやる。ここで両舷に縄で結びつけた網を下ろす。今度は逆に手縄をたぐっていくと錨のある方向へ船は移動し、網もそれに伴って湖底を移動して、シジミを捕獲していく。最後に網を引き上げてシジミを網から取り出す。引き上げるときは両舷に取り付けた手廻しのロクロを使用した。近年はそれも動力化している。
 シジミ漁は1日中、繰り返しながら何回も網を引く。沖島の南側、奥島までがよい漁場で、深さ3ヒロ内外の砂地となっている。一般に砂地のシジミは大きく、泥地のものは小さく味も泥臭い。以前はとってもとってもわくようにシジミが繁殖したが、近年はさっぱり漁がなくなった。