滋賀県地図 沖島の航空写真



位置
 北緯 35度31分
 東経 136度11分
 海抜(湖岸)84.5m
   (旧校舎) 98.25m

 沖島は近江八幡市の北端部にあり、通称沖の方にある島「おきのしま」また「奥の島と も呼ばれていた。琵琶湖の東岸より北湖の南東部に位置し長命寺の半島部北約2q(最短部1.3〜1.5 q)の沖合にある。島の大きさは東西2.5q、南北1q周囲約7q面積は約1.5kuで琵琶湖に浮かぶ島のうちで最大の島である。

沿革
 明治5年区制区域 蒲生郡第七区沖島村 明治22年(1889)の市町村制施行以来 蒲生郡島村の一部を構成していた。島村は昭和26年(1951)に蒲生郡八幡町に編入され、更に昭和29年(1954)八幡町は岡山・金田・桐原・馬淵の四か村と合併して近江八幡市となる。現在、沖島は対岸の小字、宮ヶ浜・小豆浜・伊崎・切通とともに沖島町を形成している。

地形
 沖島は尾山(標高225m宝来が嶽とも呼ばれる)と西南部の頭山(標高139.8m) の二つの山を中心に島のほとんどが山林でその斜面が湖岸近くまでせまっている石英斑岩 からなり風化・浸食が進み、湖岸には多くの岩石が露出している。明治の頃まではこの岩 石を石垣用として石材業が盛んに行われていた。島には平地が極めて少なく、ほとんどが西南部の狭小な平地に密集していて主に漁業を 営んで生計を立てている。
 現在では対岸の大中之湖干拓地で農業を営んでいる家もあるが、島内では古くから満足な農業は行えず、狭いところを開墾するだけで、湖水に生活の糧を求めざるを得なかった。紆余曲折はあったが今でも漁業が島の主要な生産活動であることには変わらない。

交通
 島外との連絡にはほとんどの家が漁船を所有しているのでそれが利用される場合が多い。 (堀切新港ができ、島民のほとんどは沖島港と堀切港間を往来する。)商品輸送と乗客輸送を兼ねた定期船が1日1度、島の南6qにある長命寺港との間を往復 している。島外に通う中学生や高校生のためにスクールボート「わかば」が1日2〜4回運航してい たが、平成20年度末で廃止となった。

人口
 沖島では、山が琵琶湖まで迫り、わずかな平地を求めて140余戸の人々がわずかな平地 にひしめきあうようにして生活してきた。
   
     年     代   戸  数    人  口
   1805          43     194
   1865          64     209
   1872  明治5     54     306
   
   1955  昭和30   153     808
   1960  昭和35   154     763
   1970  昭和45   155     695
   1980  昭和55   158     749
   1990  平成2    154     653
   1994  平成6    155     630
   1995  平成7    154     583
   1996  平成8    152     568
   1997  平成9    147     542
   1998  平成10   142     537
     ・     ・       ・       ・
     ・     ・       ・       ・
   2005  平成17   143     442
   2007  平成19   141     394
   2013  平成25   124     330
生業
 沖島は主漁副農の半農半漁村である。
 漁業
 織田信長によって特権的な専用漁場を与えられて以来、これを活かして漁業に専念してき た。1980年(昭和55年)漁協正組合員140,準組合員7,1戸1組合員制をとっ ているので全戸数の95%が漁業に関係している。女性従事者も増えてきている。
 漁船数約220隻で漁法としては地びき網(5月から11月にされていた現在はほとんど されていない)、底びき網(8月から翌年の4月頃まで)、沖すくい(7月頃)刺し網( ほぼ終年)、エリ(ほぼ終年)、タツベ(ほぼ終年)、シジミ船びき網(5月から8月まで禁漁期、現在は専門にされているのは1件)などがある。
 主要な漁獲物は、スジエビ、ゴリ、アユ、フナ、イサザ(最近は少ない)、シジミ(最近 は少ない)、ワカサギ(最近増えてきた)、モロコなどである。
 農業
 島民の農業への関心は強く、急傾斜地や対岸まで田畑を開墾してきた。中之湖入口付近や 大中干拓地を買い入れ、昭和50年には総農家数112で全世帯の70%以上が農業をし ている。ほとんどが漁業をしている第2種兼業農家である。島内には尾山の北西斜面を平 坦にして作られた畑(千円畑)と各家のそばにつくられた菜園があるだけである。
 島外にある農地は約50haで食糧はほとんど自給自足している。漁船に農具を積んで出作 りに行く姿は沖島ならではの風景である。
 石材業
 沖島は石材資源に恵まれ、古くから石材業が行われていた。明治20年頃急激に発展し、島はそれによって大きな収益を上げていたが、漸次減退し、戦後は全く姿を消してしまっ た。
 その他
 沖島にある商店は雑貨屋2軒、タバコ屋1軒、酒屋1軒
 観光的要素は少ないが、船便が便利になったおかげで、年々島を訪れる観光客が増えてきている。民宿は2軒ある。最近では堀切港 を利用して県内へ働きに出る人が増えてきている。
 公共の施設等
沖島には沖島小学校、沖島保育所、公民館、郵便局、漁業会館、老人憩いの家、消防分団の他沖島漁港、栗谷港、消防艇庫、簡易水道水源地、下水浄化センターなどがある。早く から上下水道は整っていた。
 寺社には奥津島神社、真宗本願寺派の西福寺と願證寺と弁天神社がある。
 対岸には国民休暇村宮ヶ浜荘、奥島自然休養林等がある。

沖島に残る民話・伝説

白鷺の恩返し
 昔、大島の郷と呼ばれていた頃のこと、ある日一羽の白鷺が息も絶え絶えにさまよっていた。日牟礼の社の方から現れた大国主命はこれを見て、沖島の湯谷の泉に連れていき「この湯につかっていると元通りになる」と言われた。傷がいえた時大島で火事が起こった。白鷺は腹一杯に水を飲んで飛び立ち火に向かって吐き出した。これを何度か繰り返すうちに突然の激しい雨により大島の火は消えたが、湖岸には血に赤く染まった一羽の白鷺が死んでいた。
島の起源
 沖島は往古、神の島で名もなく人も住んでいなかった。貞観年中、中嶋甚太夫ほか5名の神官が移り住み後に寺も建てられ僧1人が住むようになった。
落人伝説
 島の住民は源氏の落ち武者の子孫だと伝えられている。源満仲の家来7人が戦に敗れ沖島に逃れてきて住みついた。その後分家などで家数も増え、更に佐々木源氏の落ち武者も加わり、今のようになった。
寺院の廃転
 往古は天台宗の常安寺、長成寺、尼寺の3か寺があったという。1か寺は船木に移り他は廃寺となったらしい。
西福寺の開創
 茶谷重右衛門の妻が産後まもなく乳飲み子を残して死んだ。死後毎夜亡霊となった現れた。夢のお告げで「明日、聖人がこの島に立ち寄られる。」とあった。お告げの通り蓮如上人が来られ、そのことを申し上げたところ上人は幽霊を教化して六字の名号を与えられた後重右衛門は自分の家を寺とした。これが西福寺の始まりである。この六字の名号はむしろの上で書かれたので虎の斑のように見えるので「虎斑の御名号」といわれるようになった。
願證寺の開創
 沖島の住人、西居某が蓮如上人の教化により遡髪して弟子となった。法名釈願證、これが願證寺の始まりである。
雷よけの宮(雷の落ちない話)
 昔、雷が神社の桜の木に落ちたことがある。その時神様が金網を伏せて捕まえた。雷に「もう落ちません」と約束させたのでそれから沖島には雷が落ちないようになった。(湖上では落雷の危険性が高く、その恐怖を和らげるためこのような話が生まれた)今でも奥津島神社は雷よけ神社として漁にでる島の人々はほとんど雷よけのお守りを下符されている。
沖島の神
 沖島の神社の神さんは、欲の深い女神で島の人口が減るのを好まない。そのため島の人々が島外に出て働いても出世ができず、結局島に戻ってくるという。
カワウソの話(カワウソのいたずら)
 昔、地曳網の時期になると寝過ごさないように起こし番が決めてあった。番にあたった者は「イコケーイコケー」といって仲間の者を全部起こして回るようになっていた。ある晩「イコケーイコケー」の声がして仲間の船の所までいくとまだ真夜中で誰もきていない。ガサガサと暗がりの中を走り去る何者かの音がした。カワウソにだまされたのです。夜遅く歩いていた人がうまくだまされてごちそうを持っていかれたという話もある。
 カワウソはガワウとも呼ばれ湖岸一円にこれにまつわる話がある。沖島のガワウは夜遅くなると出てきて人間に化けたりいたずらをしたりするといわれている。小糸漁は朝方上げるので一晩中船上で見張り番をする。地曳網は20人以上で組を作り真夜中に船を出すため当番が仲間を起こして回る。起こされて船に行ってみると誰もいない。湖岸で米をかしている人に近づいてみるとガワウが女の人に化けていた。といった話もある。
雨乞い弁天さん(沖島弁天記)
 足利義政の側妻「今参局」は本妻日野富子の怒りを受け沖島に流されて遂に惨殺されてしまった。怨念を恐れた島の人は、磯内湖の方から雨乞いの弁天さんを移して懇ろに供養した。
 彦根、長松寺の僧が享保19年に書いた「沖島弁天記」という古文書が残っている。沖島の湖岸のとだえるところが坊谷(湯谷・・昔常安寺があったところ)に郷人の願い出によって弁財天を安置した。船の遭難と水。火。風の災害を転じることを願った。
雨乞い
 明治9年に日照りがあって雨乞いをしたことを伝える文書が残っている。

沖島の民族知識

○ケシキを見る
 琵琶湖の漁民は天候に対して敏感である。天候の如何によって魚の集まり具合が違い、漁獲量が支配されることもある。しかし、それにもまして琵琶湖の天候が変わりやすく、出漁中に何が起こるか分からないという意識が体験を通じて強く働いているためでもある。出漁前に空模様を見てその日の天候の変化を予知することは、沖島の漁民にとっても極めて大切なこととされてきた。雲の動きや風の流れなどから天候の変化を予知判断することをケシキを見るという。
 琵琶湖の荒れ易い冬の季節には、沖島の漁民はことに出漁に慎重となり、一人でケシキを見ることはしない。ケシキを見るには多くの場合、浜に出るが、少しでも気になることがあると、2人3人と仲間が出てくるのを待って皆で相談した上で出漁するかどうかを決めるという具合である。冬の夜明方は冷えるので、あちこちで焚き火をしながら様子を伺い話し合いを進める。まずまず天候に心配はないとの結論が出ると、一斉に漁場に向かって出て行くが、風や波になるだろうといった予想に傾くと、ぬけがけをして出漁する者はなく、めいめい家に引き上げてしまう。特別に天気の予知に優れた人物がいるわけではないが、「彦根さん(彦根地方気象台のこと)の予報よりはあたる」とこの合議による天気予報には自信を持っている。
 沖島の漁民にいわせると、堅田ではあまり仲間同志で話し合うことがなく、それぞれにケシキを見て出漁する。少々の危険が見込まれても出漁するのが漁師の意地と心得ているらしい。そんな堅田の漁師の目には湖上が少しでも波立つと出漁しない沖島の漁師は、どうも臆病者としてしかうつらないようだ、とのことであった。
 「寒の30日と土用は寝て暮らせ」といって、沖島では昔はこの期間漁に出ないで休むことが多かった。夏の土用は魚をとってもすぐに鮮度が落ちて値段も安いところから、ネゴザと枕を持って寺の本堂で昼寝した。寒の30日は寺の本堂で昼寝というわけにはいかないが、湖水がよく荒れて漁にならないのでこのような言葉が生まれたのであろう。
○ヒアラシ
 比叡嵐の意味という。冬に大津方面から吹いてくる南西の強い風で、湖面が荒れて漁に出られない。岡山口から比叡山の方向にかけて雲があると、やがてこの風が吹き始める。
 
○ハナビラキ
 3月終わりか4月初め頃から吹く南西の風。ヒアラシと同じ方向から吹くが、ヒアラシのように強くはなく、この風の期間はよい天気が続く。この風が吹くようになると、フナをはじめ各種の魚がよくとれる。
○シマガオリル
 比良山地から吹き下ろしてくる北風についていう。ホラカゼともいい、春の日暮れから吹き出すと、よい天気が続く。
○ハヤテ
 季節に関わりなく短時間湖上を吹く強風のことであるが、特に春先に北西から吹いてくる突風をさすことが多い。西から北の方にかけてちぎれ雲がわき、それがピーピーと渦巻き状になり、その先がとがっているとこの風が吹いてくる。朝起きて「美しい天気やなぁ」などと雲一つない空をながめていると、見る間に雲が出てハヤテが吹き出し、湖水が荒れるのである。また、お日さんが耳をさすといい、朝日が出てしばらくしてから、太陽の両側や上方に短い虹のような現象が見られる場合にもハヤテが来る。「朝虹だと漁に出るな」という諺がある。ハヤテで難船することがよくあるので、沖島ばかりでなく琵琶湖の漁民の最も恐れる風となっている。「比良の八荒れ荒れじまい」などといわれるのもこの風で、この風が吹かなくなると、琵琶湖に本当の春が訪れるという。ハヤテが吹くと、魚は湖底に沈んで不漁となる。
○キタカゼ
 5月は木の芽だちの頃といわれるが、この頃からキタカゼがよく吹く。同じキタカゼでもイブキ風といわれるのはどちらかといえば北東の風である。伊吹山の方から吹いてくるという。春先から秋口にかけてよく吹く。船にはこわい風ではないが、この風が吹くと湖水が波立ち、魚があまりとれない。もっとも漁場によっては魚が集まる。
○ミナミカゼ
 タツミカゼともいう。南から吹いてくる風である。春先に初めて吹くこの風を春一番と呼ぶ。長命寺から吹くと長命寺ミナミ、堀切から吹くと堀切ミナミというが、この風が吹くと、前日までいた魚がすいといなくなる。ないでからもしばらくは魚がとれない。
○カミカゼ
 梅雨があけた頃にはカミから南西の風が吹く。カミとは大津のことで、この風をカミカゼと呼ぶのである。またサキカゼとも呼んでいる。カミカゼに対して前記のキタカゼの東よりのものをシモから吹く風と呼ぶことがある。
○イバ
 東風いう。能登川町の伊庭口から吹いてくる風である。この風が吹くと雨になるという。
○ニシ
 冬の風は西から強く吹く。これをニシという。ニシが吹きつめて北に変わると、よく雪が降る。
○ニワ
 風がなくて湖面が波立っていない状態をいう。湖がニワだと漁に出る。そのため年末の大掃除は12月10日頃から後の湖が荒れて、漁に出られない日にする。モチツキも同じように湖の荒れる日にする。ただし、これは28日以降となる。
○ウオジマ
 沖島では雨は少々降っても風さえなければ漁に出る。梅雨の頃は雨は降るが、風は大したことはない。5月から梅雨のある6月にかけて大雨の後にウオジマといって魚の群れの集まる季節で、魚の卵が大きくなり、魚の最もおいしい頃で、値段も高く、漁民も熱心に漁に出かけるのである。

沖島の年中行事

 沖島は全戸真宗で西福寺と願證寺の2寺がある。真宗地域のため、民俗行事は稀薄であるが、長く閉鎖的な性格を保っていたせいで、特色ある民族も見られる。
○正月準備
 12月28日頃、2〜3軒の家が寄って餅つきをする。鏡餅は小さな丸餅で、31日に床の間・かまどさん・労働の道具箱・仏壇・荒神さん・船などに供える。これらは三賀日の後、おろして食べる。仏壇には三重の鏡餅を供える。新年が厄年や還暦等の祝とかになる者は、31日に大きな鏡餅を神社に持って行き、宮番(宮世話)に頼んで供えてもらう。1月3日には小さい方を下げて貰って帰る。搗いたその日には、外に餡のついたボタモチを作り食べる。
 門松はどの家も飾る。地下の山(共有林)から松・竹・梅の枝を切ってきて、30cmぐらいの松を中にして竹・梅を水引で括り、家の入り口の西側の柱に釘付けする。その他、船、小屋等にも飾る。沖島の山は中腹以下は個人所有地で、中腹以上が共有となっている。しめ縄は入口の正面に飾る。
○大晦日
 オオミソカ、古くはオオツモゴリといった。年越しにはそば、古くはうどんを食べていた。寺では鐘がないため除夜の鐘の代わりに特殊な打ち方で太鼓を叩く。除夜の太鼓が鳴ってから神社に詣り、そして寺に詣る。
○宮番(宮世話)の交代
 神社の世話をする者を宮番、或いは宮世話という。42歳になる者がなり、1年間務める。交代は大晦日の深夜に行われる。除夜の太鼓の鳴る前に新・旧の宮世話が社務所に集まり引継をする。除夜の太鼓と同時に燈明を消し旧宮世話は帰る。新宮世話は社務所に集まり、新しい燈をともす。これを「火をかえる」「火の引継」という。正月の燈明は15日間ともしておき、それ以後は、月の1日・15日と、神の命日である8日にともす。
○若水
 沖島の飲料水は以前は琵琶湖の水であった。1月1日の朝早く女性が桶でツイタチノミズを水壺に汲んでくる。
○雑煮
 朝汲んだ水で雑煮を祝う。雑煮は醤油のすまし汁で削り鰹を入れたものと、白味噌仕立てで芋(コイモ)を入れたものが多い。中には、小豆善哉が雑煮である家もある。現在、醤油・或いは味噌味でも、昔は小豆善哉だったという家もあり興味深い。
○宮詣
 男性女性とも、厄年の者は1月2日に、同年の者が連れ立って宮詣りをする。この中には17歳の男子も含まれる。
○元服祝
 男は17歳になると元服し、一人前となる。元服した17歳の若者を元服若い衆という。それまでは、大地曳網に参加しても半人前の給料しか貰えないが、元服すると顔さえ出せば一人前の給料が貰える。また、結婚も認められる。
 1月2日、元服する若者がいる家では親戚を呼んで祝う。本人は新しい羽織を着て、同じ年元服する者と連れ立って神社・両寺(西福寺と願證寺)に詣る。このような同年の者をツレといい、生涯を通して大事にする。学校ヅレと同年ヅレがある。紋日にはツレが集まり、ツレの一杯をやるという。神社から戻った若者の元服の祝いには、叔父、叔母などの親戚から桐の下駄とかダンブク、酒が送られる。ダンブクは紺パッチで、サギチョーの時にはこれを着て出る。明治初年頃には、元服の時に仮親を決めて頼み、1月7日から14日の間に仮親が元服若い衆を連れて、若い衆の所に挨拶に行ったという。
○年始
 三賀日の間に年始詣りをする。分家(シンヤ)は本家(オモヤ)の、嫁は実家の仏壇に詣る。
○鏡開き
 1月3日、鏡餅をおろして食べる。
○坊さんの正月
 僧侶は4日にならないと親戚・寺の世話方に年始に行けないので、1月4日を坊さんの正月といった。
○墓詣り
 大晦日までに墓の掃除をしておき、三賀日とか七日までの間に墓詣りをし、餅などを供える。
○七日正月
 七日正月という言葉だけがあり、行事はない。
○十日戎
 戎さんは漁師の神で、以前から不漁の時には大漁を願って、西宮の戎さんに詣っていた。沖島の石屋が発戎を非常に尊敬していたことから個人的に1月10日、西宮の発戎に行くようになった。後、次第に団体で行くようになり、戦後特に盛んになった。
○左義長
 1月15日、サギチョーの行事である。これは若い衆、特に元服若い衆を中心とした行事である。学校が終了してから17歳までのものは前髪、或いはコワカイシューといった。若い衆への加入年齢は学制の変化に伴って、小学校4年(10歳)から15歳位まで順次上がった。17歳で元服して一人前となり、25歳になるか結婚すると脱会する。若い衆は若い衆頭・副頭・甚定方の役があった。サギチョーで1番大切な役はサギチョーへの点火を行うものであり、これを元服若い衆が行う。元服した若者にとって初めての大役である。サギチョー行事は沖島でも重要な祭なので、少し細かく記す。
○サギチョーの準備
 サギチョーに使う竹は、若い女性がとってくる。数日前に若い衆が頼むと、以前は島の北の山から、現在は対岸の奥島からとって来てくれる。14日の夕方、以前の波除突堤の先端、大島崎に大・小2本のサギチョーを立てる。神社に近い方が大サギチョー、遠い方が小サギチョーである。サギチョーの芯は、先に笹葉を残した3本1組の竹に御幣を結びつけたもので、これに藁を巻いて作る。この芯に、四本柱と呼ばれる4本の竹を添える。さらに、その根元に藁、そして笹竹を積む。小サギチョーは高さ4〜5mぐらい、大サギチョーは高さ10mぐらいの大きなものになる。サギチョーに使われる藁は、13日から14日にかけて各家から集められたものである。また、この藁を使い、14日午後、神社のバンバで、サギチョーの周囲を巻く直径1尺ほどの縄をなう。この縄をダイナワ、あるいはサギチョーのしめ縄という。昔はひとかかえぐらいの太さであったというが、次第に細くなってきているらしい。神社の拝殿を1回半回ったぐらいの長さである。以前は宮世話の指導で若い衆がこしらえたが、後、大人が出て作るようになった。
○ジューニトー
 14日午後から15日午前中に、マエガミが各家を回りサギチョーの祝儀を集める。このことをジューニトーという。祝儀は美濃紙・扇が本来のものであるが、菓子や金銭なども出す。
○サギチョーの飾り
 サギチョーの飾りは吉書・ダンブクロ・扇・御幣である。吉書は、赤・青(実際は緑)・黄・白の色美濃紙を半分に切り、色違いに継いで「吉書天筆和合楽地福円満楽」「新玉の年の初に筆取りて万の宝書きぞ納むる」吉書今日誰か知らず計会の春風秋水一時来たる」等のめでたい文字を書いたもの。マエガミまでの男の子が自分で書かねばならないが、小さければ親が代わりに書くこともある。吉書サンには子どもの名前と、年(数え)より1つ多い年齢を記す。この吉書を笹竹に取り付け、大・小のサギチョーに刺し立てる。
 嫁入り前の娘は、お針の腕が上がるようにと1人で1つダンブクロを作る。これは色紙を針と糸で縫い合わせ、中に藁しべ・籾殻・豆穀等を入れて膨らみを持たせた小さい、きれいな袋である。これに、七夕の飾りのような切り紙をつけて垂らす。道端に出してある笹竹に、近所の何軒かの家からダンブクロを持った娘さんが吊り下げに出て来る。これをサギチョーに刺し立てる。

○小サギチョー
 小サギチョーは簡単な飾りつけのまま、15日午前中に13歳から15歳のマエガミが火をつけ燃やす。

○神社での式
 15日の午後、大サギチョーが燃やされる。この時は村中の人が集まって見物する。若い衆は寺に集まり、本堂で御幣さんや扇を作る。漁業センターができてからは、2階で作るようになった。御幣サンを作る美濃紙や扇はジューニトーで集めた物が使われる。扇は4つほど組んで円形にし、大漁等の願い事を書く。
 用意がすむと若い衆頭を先頭に、御幣サンを頭上に担いだ元服若い衆、そして他の若い衆が列をなして神社に向かう。元服若い衆が1人とか小数の時は前年・前々年の元服の者がいっしょに御幣サンを持っていく。
 若い衆は全員、筒袖で腰までの単衣の紺ハッピ・ドーブクと紺パッチ・ダンプク、これにヘコオビを締め、紺足袋に藁草履という格好であった。現在は元服若い衆だけがこの姿である。
 神社に着くと、若い衆頭に率いられた元服若い衆が本殿前で氏神に参拝し、若い衆頭は御神酒を元服若い衆の担いた゛御幣にふりかける。拝殿の外側四隅に分かれて、担いで来た御幣サンを松の枝に括りつけると、再びそれを担いで本殿に拝礼する。若い衆頭が御神酒をふりかけ、神前の火打ち金で切り火の所作をすると、次に若い衆頭を先頭にし、御幣サンを担いだ元服若い衆が拝殿の周囲を廻る。ゆっくりだと、他の若い衆から「駆けろ、駆けろ」とせかされ、酒も入った元服若い衆が疲れて足元が怪しくなるまで続けられる。この間、「サギチョーよ、どんどんよ、餅のかけらはないもんか、あったら焼いて食おう」という、サギチョーの唱えごとが歌われる。この歌はサギチョーのしめ縄をなう時や若い衆一行が神社へ来る途中、神社からサギチョーの所まで行く途中、そしてサギチョーが燃やされる時にも大声で歌われる。
○点火
 若い衆の一行が神社を出て大サギチョーの前に着くと、元服若い衆の担いできた御幣サンが大サギチョーに取り付けられる。サギチョーに点火する前にも、若い衆頭が切り火の所作をする。火をつけることのできるのは元服若い衆だけである。
 火のつけ口は、神社に向いたカミサングチ、その反対のウミズラグチ(ウミテ)、島に向いたシマグチ、その反対のアマズラグチと4つあり、点火する者も、カミサングチは長男、シマグチは次男・アマズラグチが3男というように決まっている。長男が2人以上いれば、上に姉のいない本当の長男がカミサングチを担当する。カミサングチには、前日から各家の古いお札が積まれている。子どもたちは前日から立てられているサギチョーの各口から中に入って遊んだりしているが、大サギチョーのカミサングチだけはだれも出入りしない。
 元服若い衆は手に持った藁の穂先を揉んで火がつきやすいようにし、これに火をつけてサギチョーに点火しようとするが、周囲の若い衆が藁束でその火を叩き消し邪魔をするのでなかなか火がつけられない。サギチョーに一度火がつくと勢いよく燃え上がり、吉書サンや、丁寧に作られたダンブクロ等も一気に燃えていく。この時、吉書サンが高く舞い上がると習字の手が上がるといわれている。
○サギチョーに関する俗信
 サギチョーの芯がアマズラグチの方に倒れると鱒の豊漁があると喜ばれた。
 サギチョーの残り火で餅を焼いて食べると、風邪や疫病にかからずに暮らせるといった。最近は竹の先にはさんで焼くが、以前は直に焼いていたので真っ黒になったという。
 サギチョーの竹の燃え残りを持ち帰り床の下に入れておくと蛇が入らないという。
 サギチョーが終わってその日のうちに、元服若い衆が各家を廻り、その家のマエガミ前の男の子の人数に応じてジューニトーのお返しをする。なお15日朝には、小豆善哉を食べる。

○骨正月
 1月20日を骨正月といい、ブリのあら汁を食べたが、現在は名前だけで仕事を休む。
○報恩講
 25日のオタイヤには厄年の者が願い寺に鏡餅を持っていく。26日から28日の報恩講には、毎朝寺の当番が味噌汁・おかずを用意する。50歳以上の者が飯と碗・皿を持参し、寺で朝食をとる。
○カサネの正月
 2月1日を重ねの正月というが、名前のみで行事はない。仕事を休む。
○年越
 2月3日をトシコシという。夕食には必ず鰯を食べるが、頭を門口に刺したりすることはない。夕食の後、炒った白豆(大豆)を神棚に供え、それを下ろして自分の年の数より1つ多い数を食べる。残りの豆は「鬼は外・福は内」と唱えてまく。
○獅子舞
 2月下旬、元服若い衆が中心となって金を集め、伊勢太神楽・獅子舞を呼んだ。

○女節句
 4月3日、長女の発節句には、母親の実家から雛人形が贈られる。雛人形は嫁入り等でもって出ることはない。古くなると箱のまま琵琶湖に流した。プカプカと浮いていく様子は、人形がお礼をしておられるのだという。初節句の祝いといっても生後すぐとは限らず、子どもが3〜4歳になってからの方が多い。この時には父方・母方両家の親戚を集めて内祝いをする。これは、男節句の場合も同様である。女節句の日には赤飯・寿司・しじみ汁等を作る。

○春祭・十九詣り
 沖島の氏神は奥津島比売命で、和銅5年藤原不比等創建と伝えられている。頭山の中腹奥津島神社にまつられている。この神は島民が外に出ることを好まないという。春祭は5月8日で、対岸の北津田、奥津島神社から神主が来て祝詞をあげる。5月7日はヨミヤウツシ(宵宮移し)で、神輿倉から神社に神輿を運び、8日のオワタリで島内を練る。50年ほど前は、現在旧校舎のある所がお旅所であり、そこまで練っていた。島内の道は狭く、神輿が傷むため、船で弁天神社までおわたりしたこともある。ずっと以前は船で宮ヶ浜まで行っていたという。
 春祭の時に十九詣りをする。これは、厄年の者が、自分の姓名を書いた吹き流しを作り、特に丁寧に氏神に詣るものである。19歳の女性が晴れ着を着て詣るので一番目立つ。そこでこの習俗を十九詣りと呼んでいる。

○男の節句
 6月5日、長男の初節句には、母親の実家から武者人形が贈られる。男節句には糯米粉、あるいは粳米粉を加えた糯米粉で作った団子を茅で巻いたチマキが作られる。このチマキ団子や他所の祭で貰ったチマキを残しておき、家の入口とか神棚の横とかに掛けておくと、その1年間の小遣い銭に不自由しないという。
○ハゲッショー(半夏生)
 7月初めの半夏生には畑に入らない。この頃ハゲッショー雨といって大雨が降る。この雨に乗ってイオがついて来るといい、この後魚のしゅんが変わる。
○盆
 盆は8月13日〜15日であるが、真宗のため盆行事は特にない。14〜15日に墓詣りをする。
○盆の仮寄り
 盆の13日には若い衆が寺に集まって盆寄りをした。これを盆の仮寄りといった。この時、14〜15日の盆踊りについての話題や、16日に盆踊りの追加(貰い盆)を頼んだりする相談を行う。若い衆の規定に外れる行為をした者がいると、仮寄りの時に、仮親を呼んで除名を告げた。すると仮親と親が酒を持って誤りに来た。それでも許されないと区長までが来たという。仮親制度は明治初年のことであり、伝え聞いているだけである。
○地蔵盆
 8月23日から25日の3日間が地蔵盆である。各家は、普通外でまつっているお地蔵さんを家の中に持ち込んでまつる。各家の男の子の祭であり、寺は関係しない。
沖島の地蔵盆は特色がある。
○お地蔵さん
 お地蔵さんは子どもの守り仏であるといわれるが、地蔵盆は男の子の祭である。女の子しかいない家では、原則としてまつらない。まつる年齢は、大体小学校時代から中学校時代までが上限のようである。分家をして家の地蔵がない家では、男の子が生まれてから作る。男の子ができてもお地蔵さんがなければ、地蔵盆の時だけ、女の子ばかりでまつらない家から借りてくる。借りてきてもまつるものだという。但し分家しても子どもがなく、夫婦それぞれの親戚から取り婿・取り嫁をした場合等にはお地蔵さんを作ることはなく、男の孫ができてから初めて作り、まつることができる。新しく作る場合には、安土の石工に頼むことが多いというが、島の山からでたもの、地引き網にかかったもの等をご縁だからといって持ち帰ったとか、由来は様々のようである。男の子の誕生とともに作るといっても、借りた、貸したという話をよく聞くのは、子どもが物心つく頃までに作るためである。
 お地蔵さんは普段、家の外にまつられている。場所は家の入口付近、家の裏の庭先等である。地蔵仏は修業中なので、外にいて貰っても差し支えないという。常に花や茶を供える。漁師は朝の10時、夕方の3時頃の出入りの時に茶と団子くらいの腹ごしらえをするので、その時に茶を供えたりする。正月と盆には丁寧なお供えをし、正月には鏡餅、中には門松も飾る家もある。特殊な例として、普段も家の中、床の間でまつっているところもある。
○地蔵盆
  22日、お地蔵さんを浜に持っており、新しいたわしできれいに洗って家の中に持って入る。まつる場所は、座敷の床の間の前が多い。昔は床の間のある家はほとんどなく、50〜60年ほど前から次第にできてきたので、仏壇の横前といった方が正確であろう。しかし座敷以外の所もある。入口を入ったところの部屋や座敷の手前の部屋という例もある。現在座敷でまつっているが、昔は座敷の外側の縁側であったという家もある。縁側は子どもの場であり、地蔵盆は子どもの祭なので、家の中ではなく外の縁側でまつられた。  お地蔵さんは小さな台の上に置きその前に地蔵の紋である卍のついた幕を掛ける。家の紋を記したり、切り紙で作ったりすることもある。お地蔵さんの前には机を置き、いろいろな供え物を供える。お地蔵さんのすぐ手前には赤飯、その手前に香炉を置き、左右にお茶とご飯を供える。その他花・燈明、そしてカボチャ・キュウリ・サツマイモ・トウモロコシ等、地でとれた物や菓子を供える。お地蔵さんにはお茶といい、地蔵盆の3日間は朝昼晩取り替える家もある。
○ノボリ
 お地蔵さんと供え物を囲む形でノボリが作られる。四方に竹を縦、横に細い竹や糸を渡してそれに五色の紙・ハタを吊す。竹は20日頃、地下の山で切ってくる。先の方には笹葉を残しておく。これに石の重しをつけて、1晩ほど湖に沈めておく。これは竹をしおれさせないようにするためだとも、また清めるためだともいう。ノボリは天井につくように作る。緑側でまつっていた場合も、緑側の庇につくようにする。  ハタは色美濃紙を切って短冊を作り、地蔵尊号や男の子の名前を書く。女子の名は書かなかったが、最近は書く家もある。昔は22日に芋(コイモ)の露を持って寺の本堂に集まり、墨をすって書いたという。お地蔵さんを洗ったり、ノボリを作ったり、ハタを書いたりするのは本来子供の仕事であるが、親や祖父がすることが多くなったという。ハタの紙はサギチョ−の時しょに買っておく。ノボリとハタの語の使い方は、人によりはっきりしない場合もある。
○25日の行事
 地蔵盆には赤飯・ぼた餅・五目飯・ちらし寿司などを作り、親戚同士でやりとりする。子どもたちは数人が連れたって、「あげとくれ」といって親戚・隣近所を訪れ、線香・ろうそく・菓子などを貰って帰った。これらは25日の夕方、一番さかんに行われる。晩には、供え物を下げて戴く。  26日には、ノボリその他の飾りをしまい、お地蔵さんも元の所に返す。ノボリの竹は湖に流していたが、現在は残しておいて毎年使う。ハタの方は、かなり古い物まで残しておき使う。  沖島の地蔵盆は盆行事を思わせる性格があり他の地域に見られない独特の行事である。
○モミスリ祝
 各家の脱穀はドウスで行っていて、人手が要るので親戚の者が集まってモミスリをした。男は魚に出ているので、主に女の仕事であった。モミスリが終わると新米を炊き、御馳走を作って祝った。  沖島の年中行事は、真宗地域であることに加えて純魚村であるため、農耕儀礼を中心とする行事が行われず、年中行事の数が少ない。しかし、主要な行事を見ると、そこに年齢(階層的)なものが大きな比重を占めていることが窺え興味深い。